教会を導く者は人を支配すべきではない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ23:8 しかし、あなたがたはラビと呼ばれてはならない。あなたがたの先 生はひとりであり、あなたがたはみな兄弟だからである。(9節)また、地上のだれ をも、父と呼んではならない。あなたがたの父はひとりであり、それは天にいま す方だからである。(10節)また、教師と呼ばれてはならない。なぜなら、あなた がたの教師はひとりであり、それはキリストだからである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― マタイによる福音書第23章は、わたしたちはどのような指導者も持つべきではな いと言います。しかし書簡では、教会の中には導く人のいることが述べられてい ます(ヘブル13:17, 24)。しかしながら、聖書は矛盾していません。主の思いの中 にあるものは、わたしたちの天然の考え方の中にあるものとは全く異なっている ことを、わたしたちは見る必要があります。主の思いでは、長老や指導者は人を 支配すべきではありません。教会生活には、どんな支配もあってはなりません。 しかしこれは、何の管理も統治もないという意味ではありません。統治するのは 一つのことであり、支配するのは別のことです。教会のすべての指導者は、この ことについてはっきりしているべきです。主の教会では、わたしたちが必要とす るのは統治することであって、支配することではありません。 人を支配するとは、人に代わって決定し、すべき事やすべきでない事を人に告げ ることです。それは人をあなたの指揮下に置くことです。わたしたちはこの種の 支配を憎まなければなりません。だれも支配権を行使すべきではありません。な ぜなら、わたしたちはみな一つ主の下にあり、一つ霊を持っており、この一つ霊 はわたしたちの中に生きておられ、わたしたちを導いておられるからです。しか しながら、統治する必要はあります。もし集会の中で聖徒たちが何をすべきか告 げられるなら、それは支配です。しかし、集会にはある程度の統治がなければな りません。例えば、仮にだれかが偶像を拝み、そうする自由を主張するとします。 これは却下するべきです。集会の時間を決めるにも、ある程度の統治が必要です。 ある人は午前四時半に集会することを主張するかもしれませんし、ある人は午後 の同じように不便な時刻に集会することを望むかもしれません。ですから、長老 たちは祈りの中で主の所に行き、聖徒たちと交わりを持ち、霊的な鼻を使って聖 徒たちの感覚を識別する必要があります。そうすれば、何時が集会に一番良い時 間かを、彼らが決めることができます。それから長老たちが決定すべきです。こ れは支配ではなく、統治です。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、教会のすべての長老が、かしらであるあなたに取って代わって人々 を支配したりすることがないように、わたしは祈ります。彼らがあなたを、唯一 の導き手、また父として尊びますように。彼らが祈りと交わりの中であなたを尋 ね求めるように、彼らを引き寄せてください。そして彼らが識別力を持って、正 しい決定をするようにしてください。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(三)」(1997 年版)メッセージ第55編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。 eManna Japanホームページ: http://www.emanna-japan.com 登録の削除: mailto:unsubscribe@emanna-japan.com へメールを送ってください。 コメント: mailto:comment@emanna-japan.com へメールを送ってください。 .