主が人のところに来られるのは、裁くためでなく、いやすためである ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ9:11 すると、パリサイ人がそれを見て、彼の弟子たちに言った、「なぜ あなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか?」。(12節)イ エスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病んで いる人である。(13節)『わたしが望むのはあわれみであって、いけにえではない』 とはどういう意味なのか、行って学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招 くためではなく、罪人を招くためである」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (第3部) 主が天の王国の民とした人たちは、らい病の人(8:2-4)、中風の人(8:5-13、9:2-8)、 熱病の人(8:14-15)、悪鬼にとりつかれた者(8:16、28-32)、あらゆる種類の病人 たち(8:16)、さげすまされた取税人、罪人たち(9:9-11)でした。主がこれらのあ われな人たちを裁判官として訪れていたとしたら、すべての人は罪に定められ、 退けられたでしょう。そうであれば、主の天の王国の民として資格づけられ、選 ばれ、召される者は、一人もなかったでしょう。しかしながら、主は医者として 仕えるために来られました。そして彼らをいやし、回復し、生かし、救われまし た。それは、彼らが新しい天の民として再構成されるためであり、そして彼らを もって、主がこの堕落した地上にご自身の天的な王国を設立するためでした。こ この主の言葉が暗示しているのは、自分を義とするパリサイ人が、医者としての 主が自分たちの必要であったのを認識していなかったということです。彼らは自 分を強いと見なしました。彼らは自分を義とすることによって盲目にされ、自分 が病んでいることがわかりませんでした。 自分を義とするパリサイ人は、主イエスを批判し、すべての清くない人を罪定め しました。しかし、主はこう言われたかのようです、「これらの人は汚れている のではない。病気なのだ。わたしは、彼らを罪定めする裁判官としてではなく、 医者として、彼らの親愛な、愛すべき、親密ないやし主として来たのである」。 主イエスはこれらの言葉を語っていた時、自分は義であると考えていたパリサイ 人が、実は他の人たちと同じように病気であったことを、はっきりと示しておら れました。 (明日へ続く) ―――――――――――――――祈り―――――――――――――――――― 主イエスよ、あなたはわたしの親愛な、愛すべき、親密ないやし主です。わたし があなたをわたしの医者とする必要があることを、いつも認識していることがで きますように。主よ、自分がとても強く、完全であるというあらゆる考えから、 わたしを解放してください。また他の人たちもあなたを自分の医者とすることが できるよう、導いてあげてください。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(二)」(1997年 版)メッセージ第27編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版され ています。 eManna Japanホームページ: http://www.emanna-japan.com 登録の削除: mailto:unsubscribe@emanna-japan.com へメールを送ってください。 コメント: mailto:comment@emanna-japan.com へメールを送ってください。 .