TITLE : eManna Japan Archive 信仰の行ないは道徳の行ないとは異なる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヤコブ2:24 あなたもわかるように、人が義とされるのは行ないによるのであっ て、信仰によるだけではありません。(25節)同じように、遊女ラハブも、使者た ちを迎え入れ、彼らを別の道から送り出したという行ないによって、義とされた のではありませんか? (26節)……行ないのない信仰も死んだものです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (前半) ラハブは誉れのない女でした。彼女の行ないには何も賞賛するものがありません でした。ですから、義認というのは、良い行ないの問題ではなく、信仰の行ない の問題であることがわかります。重要なことは、信仰の行ないであって、道徳の 行ないではありません。イスラエル人は、ヨルダン川を渡って、エリコに攻め入 ろうとしていました。もしラハブが少しでも愛国的な思想を持っていたなら、必 ず二人の斥候を引き渡していたでしょう。しかし、エリコの王が人を遣わして彼 らを捜した時、ラハブは彼らを二階に隠し、その後彼らを逃しました。ヤコブは、 この行ないが彼女を義としたと言います。彼女にはどんな行ないがあったのでし ょうか? 彼女の行ないはうそをつくことでした。二人の人は明らかにそこにい ましたが、彼女は、彼らはいないと言いました。うそをつくのは良い行ないでし ょうか? すべてのクリスチャンは、うそは良くないことを知っています。とこ ろがラハブは、そのうそをつくという行ないによって義とされたのです。 二人の斥候がやって来て、神が自分たちを顧み、自分たちのために奇跡を行なっ てくださり、エリコやカナンの全土までもが自分たちに渡されるとの神の約束を 彼女に告げた時、その言葉によってラハブは信じるようになりました。彼女は自 分の前途、命、全家族さえも彼らに明け渡しました。彼女は自分の国に背く事さ え行なおうとしました。神は、これは良い行ないであるとは言われませんが、こ の行ないは彼女の信仰の表現であると言われます。ラハブはどのようにして二人 の斥候に自分自身をゆだねることができたのでしょう? これは信仰の行ないで した。ですから神は、人を義とするのはこのような行ないであると言われるので す。それは良いか悪いかの問題ではありません。 (明日に続く) ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 父なる神よ、あなたが行ないを義とされるのは、良いか悪いかに基づいてではな く、その行ないが信仰の表現であるかどうかに基づいてです。父よ、わたしの行 ないが単なる道徳の行ないであるのではなく、信仰の行ないとなることを願いま す。アーメン。